022 きた道、ゆく道
2011年10月
宇都宮大学准教授 森本 章倫

 道がない。今まであったはずの道がない。こんな光景は人生の中で、きっと見ることはないと思っていた。どこに道があり、どこに家があったのかもわからない。道を走っていたクルマは屋根の上にあり、海を走っていたフネは畑の中にある。それは写真の中の光景ではなく、あたり全体を見回して、体全体から感じる景色である。山と海だけが、今までと変わらず佇んでおり、静かで穏やかな自然は、かえって不気味さすら感じる。
道が街を支えてきたこともわかっているし、道を創る仕事に携わっているとも思っていた。常に道はあり続けるものだと、暗黙の上で納得していた。道があることを前提に、交通計画を立案し、街づくりを考えてきた。しかし、3月11日から自問自答の日々が続いている。 自然と共存してきた日本人にとって、この100年はどんな時代だったのだろうか。富国強兵、戦災復興、高度経済成長と、私たちは道に発展の礎を期待し、膨大な社会システムを構築してきた。確かに、広く全国にわたって整備された道は、私たちの願いを叶え、世界有数の裕福な国へと導いてくれた。
 一方で、私たちは急速な発展を期待する余り、道に過度な要求をし続けたのでなないのだろうか?早く移動できる道だけではなく、ゆっくり歩くことが楽しい道がどれだけあるのか?最近では、道端で子供たちが遊ぶ光景も、奥様方の井戸端会議も見ることができない。渋滞すると文句を言われ、交通量が少ないと無駄といわれる道。道路需要から算定されたぎりぎりの幅の道には、将来の人たちが使える余分なものはない。  道は本来、いろいろな役割をしてきたし、これからもそうでありたい。美しいお姉さんが歩き、子供の声が聞こえ、あいさつが飛び交う道。散歩やランニングが楽しい道。普段はあまり使わないが、災害時には街を守ったり、逃げ道となったりする道。こんなことを書くと、そんな理想像を掲げても財政状態が好転しなければ、そんな道は創れないとお叱りを受けそうだ。生まれてくる子供が少ないため、我が国の人口が減り続けて、街の財政も厳しくなる。そんな中で、道だけに大きな予算を割くのは難しそうだ。
 しかし、人口が減っていくことを常にマイナスと考えるのもいかがかと思う。人が少なくなるのは寂しい気もするが、見方を変えれば、一人当たりの道の長さはどんどん増えていく。道の総量自体はなかなか増やせないが、一人当たりの持ち分が増えるのなら、その分の使い方はいろいろありそうだ。 被災地で見た道は、みんなの努力で元の姿を取り戻しつつある。より便利で、快適で、安全で、そして人に優しい道へと生まれ変わろうとしている。これまできた道は、これからゆく道とは違うかもしれない。そろそろ道本来の使い方を、みんなで真剣に考えてもよさそうだ。


ウェブサイトに戻る