026 東日本大震災被災報告
2012年 7月
日本大学特任教授/(財)日本総合研究所技術顧問/東北大学名誉教授
森杉壽芳

 2011年3月11日14時46分東北大経済学部の研究室[6階]で地震にあいました。大きな揺れが長く続き建物が倒壊しても不思議ではない感じでした。東北大の経済の研究室の本が散乱しコンピュータが壊れました。何度も余震が来ました。16時ごろ川内講堂前に集合との連絡を受けそこで経済学部長より安全確認点呼を受けました。
人的被害は当方家族親族関係にはありません。市内の携帯電話は全く通じないのですが、市外からの携帯電話は時々通じることがありました。自宅も東北大も海岸から10KM以上離れており、津波の被害はありません。ただし東北大の教員の中には航空機での出張中で仙台空港駐車場に車をおいていたために車が津波の被害にあってしまったという方が何人もおられます。仙台市内の地震の被害は大きくいたるところにあります。わが家のある住宅団地では盛土の上に建てた集会場が傾きました。道路はいたるところにひび割れが入り1年半以上たった最近市役所は修理を始めました。切土の住宅(わが家を含む)は無事でした。東北大経済棟建物自体の被害はありません。震災から3週間経過した3月28日現在の経済棟は、ガスが止まっているためエアコンなし、近くにある大学生協は営業していません。(5月6日が東北大の入学式、この日より一応正常営業)。研究室の本棚はボルトで留めてあったのですがかなりのボルトが外れていました。東北大土木建築棟は2階と3階の間の柱がおれて変形し立ち入り禁止、東北アジア研究センタも立ち入り禁止となっているとの情報が入っています。4月23日現在、東北大土木建築の先生は、研究室がないまま自宅で作業をしておられます。後日片平と青葉山のキャンパスにばらばらに仮の研究室が割り当てられました。土木建築事務室も暖房がない別ビルの空間に仮移転して業務を再開しておられました。

 3月11日17時ごろに東北大から帰宅(約15km北)を試みましたが公共交通は止まっているのでタクシーか徒歩しかありません。大学構内でタクシーを捕まえましたが渋滞からの脱出に何時間かかるかわからないということでした。このため11日の晩は学生の下宿に泊めてもらいました。彼の下宿も電気ガス水道が止まっていますので寒い夜でした。翌朝自宅までのすべて歩くつもりでした。途中の公園の公衆トイレは無事機能しており水が流れました。仙台駅の近くを歩いているときにタクシーを拾うことができました。仙台駅自体のデッキとビルと駅前のビルは見ただけでもかなりの被害を受けているように思いました。道路は橋の取り付けの部分での段差が目立ち、いたるところで陥没と隆起があります。それを避けながら通行は一部の橋を除いて可能でした。自宅に帰ってみると本と茶碗の散乱がありとコンピュータ(ディスクトップ)が壊れていました。妻は3月8日から仙台オープン病院に入院していました。この病院は3月11日直ちに救急病院に指定され、病院の床まで患者がいる状態になり、軽い症状の妻は14日退院となりました。3月12日と13日と14日は停電ガス休止断水です。ライトを車の中から取り出して1つ確保、もう1つはラジオの付属品で間に合わせました。ろうそくも仏壇で発見できました。暖房は古いタイプの石油コンロがあり幸いにも灯油が残っていましたのでこれでしのぎました。水道は地震後しばらく出ていたのでこれを風呂に貯めて使用しました。トイレの水を流すのに役立ちました。お店はすべて閉鎖していますので食料は適当なインスタントもので間に合わせました。3月14日に妻が退院しました。まだガソリンがタンクの半分程度残っていましたので病院まで迎えに行きました。国道4号線の道路自体にはほとんど被害はないようでしたが、信号は全く機能していません。4号線の交差点ではすべて4号線が優先されていました。交通整理が行われたのではなく自然にそのように自己組織化が行われていました。同規格道路の交差点では、適当に交互に優先通行が行われていました。途中のガソリンスタンドには長い行列がありました。ガソリンが入荷しているようには思えませんでした。このころ日本中の都道府県警察のパトカーを見かけました。

 15日に電気が回復しました。水道も16日に回復しました。都市ガスはまだです。1ヶ月以上かかるとの情報だったのですが、新潟市とのガスパイプラインが生きており、これを使っての回復が可能となりました。わが家も多分今月末までには(実際には3月28日)ガスの復旧があるものと思われます。わが家のガス点検に来てくれた職員は広島からと大阪からの方でした。17日には固定電話も携帯もインターネットも回復しました。テレビも回復しました。さっそく東京での委員会やシンガポールでのPIARC会議などのキャンセルとの連絡をしました。仙台地下鉄も東北新幹線も止まっていますので東京への出張は不可能です。ガスが止まっている間の暖房は古いタイプの石油コンロ、電気回復後はエアコンと灯油のクリーンヒーターで大丈夫でした。料理は灯油とガスコンロ(携帯用ガスボンベ)と電気釜と電気ポットの湯でつくっています。都市ガスがないため10日間も風呂に入ることができません。銭湯が予約制で営業を再開していましたが強烈な混雑のようでしたのであきらめました。スーパーがまれに売り出しをやっています。3月21日現在ガソリンがなくなりつつあります。このころ近所の方や東北大の方が名古屋方面への疎開を試みています。ガソリンがありませんので公共交通を考えざるを得ません。しかし東北新幹線は回復しておらず東北道は一般の車両が通行禁止になっています。このため、東北道や東北新幹線から東京経由東海道は不可能で、ある人は新潟までの臨時バスの切符を確保し、新潟からは新幹線で東京経由という経路で疎開をしたと聞いています。また、別の方は、山形まで車で行き、ここでガソリンを確保したならば北陸道経由で名古屋方面に出発、ガソリンが確保できないときには仙台に立ち返るという作戦であったと聞いています。

 17日と18日の両日4時間並んで生協とつかさやで食料とガスボンベ6本を確保しました。20日妻が武蔵(DIYの店)でお米とトイレットペパーとティッシュを入手してきました。また妻が知り合いの美容室で頭を洗いセットをすることができました。これで、風呂を除いて避難生活は順調になるものと思われます。21日息子(名古屋)より佐川急便(泉店止め)で食料、トイレットペパーとティッシュが届ました。宅配便の再開です。東北道が機能しているおかげです。佐川急便泉店に荷物をとりに行きました。荷物が山のように積まれていました。情報網がマヒしていますのでまったくの人的マニュアルで私の荷物を探してくれました。30分程度かかったように記憶しています。

 3月22日近くのコスモで朝6時から6時間並んでガソリン(ハイオク)を満タン入れることができました。私が会員の花の杜GC(わが家より30km北)で無料で温泉に入れるとの情報を得ていましたので早速風呂に入ってきました。ゴルフ場への道路はいたるところに凸凹がありますが気を付けて通ればOKでした。ゴルフ場の盛土部分のコースの被害は大きく、建物も天井が崩壊し、再開の見通しはたっていませんでした。23日、次男(東京)と弟(大阪)から食料(缶詰類)の宅配便(ヤマト)が届きました。 佐川急便は混雑しているためか荷物が届いたとの連絡がありません。佐川急便泉営業所にこちらから勝手に行き、私の妹(奈良)からと妻のいとこ(札幌)からの宅配便を受け取ってきました。3月25日現在もう1台の車のガソリンは入手できていません。27日4時間並んでもう一台のガソリンを満タン入れることができました。同時に灯油37リットルを入手することができました。3月28日都市ガスが回復しました。さっそく風呂に入りました。これでわが家としては正常化したことになります。スーパー、コンビニは、時々、ところどころ、営業していますが、食料はまだ十分ではありません。ガソリンスタンドは3月31日現在も長い行列です。4月に入るとかなりのお店が営業をするようになり、ガソリンスタンドの行列もなくなりました。

 そこに4月7日深夜の余震がありました。今度は自宅にいました。4月7日23時30分の地震は、本の散乱と茶碗の扉内での落ちこぼれ、停電発生、断水なし(水が濁る)、ガスは止まらなかった、という被害でした。断水を覚悟して直ちに風呂の水を満タンにしました。数日後の情報ですが東北大経済の研究室ではやはりコンピュータと本と小本棚が散乱しました。ガラスなどは大丈夫でした。翌日4月8日午前9時電気が回復し通常生活にもどりました。停電は2回目ですので、ライトは車の分とラジオについているのと娘婿(岩沼)がおいてくれた充電式のライトとろうそくというわるくはない状況でした。キャンプ時に使うランタン型のものを買っておこうと思いました。4月13日妻が電池式のライトを2つ買ってきました。売り切れ寸前という状況であったということです。更なる余震に備えての準備におおわらわの状況のようです。

 盛岡―那須塩原の東北新幹線の再開は4月下旬ということになっています(実際には4月29日再開)。仙台地下鉄の泉中央から台原までの復旧は5月下旬となっています(実際には4月29日再開)。自宅から仙台駅に公共交通でいくにも地下鉄泉中央と台原間は代行バスですので多分1時間半以上かかる状況です。日大での講義は5月中旬からとしていただきました。東北大土木計画学系の教員は、土木学会の調査の1要素として桑原先生代表で稲村先生のノウハウで緊急物資とガソリンの流動実態を調べる調査を行っています。特に、宮城県と岩手県の県の拠点から市町村拠点経由避難所での輸送量をおさえようとしています。緊急事態が今も続いていますので現地での伝票の写真を撮るなどの苦労が行われています。2011年5月と2012年6月の土木計画学春大会で発表が行われました。

 3月30日仙台空港の津波被害視察。途中仙台東部道路から名取の津波被害を見ました。名取川沿線地域を除いて高速の盛土が津波を止めているのがわかります。空港の海岸側の防潮堤は陸側から洗掘されて破壊。岩沼工業団地は全滅。建物が残っているものもあるが内部は完全に破壊している。仙台製油所が完全に破壊したためにガソリンの供給が不足しました。。4月5日仙台港と周辺視察、石巻日和山公園より石巻市内被害視察、南三陸町視察。石巻から南三陸町へは三陸自動車道―国道398号線を利用しました。山間から突然津波被害が眼下に広がります。写真で見るよりもさらに厳しい風景でした。4月26日再開後の仙台空港を視察。すべてマニュアルによる運航でした。30年前の途上国の姿でした。
6月18日津波被災現場を視察。八戸、久慈、田老(X字の防潮堤)、宮古、大槌、釜石での強烈な被害とまったくと言ってよいほど復興が行われていないように見受けました。小さな入江・漁港はすべて破壊されています。岩手県の国道45号線がずたずたに切断されており、何度も内陸部への迂回を繰り返しました。内陸部にある東野市泊。釜石での仮設住宅を作る大工さんで満杯。翌日6月19日も被災現場を視察。(吉浜をミス)、大船渡、陸前高田、南三陸、(女川をミス)、石巻(工業港の企業が復興していない)、(鮎川をミス)、仙台(ここだけ平野での被害)、いずれも被災地での復興は全くないように見えました。特に石巻、宮古、大船渡などの地震と津波による地盤沈下が生じている地域は満潮時には潮が浸水しています。この地域は放棄する方がよさそうに思えました。住宅の移転が検討されているので旧住宅地で被害があるところも放置の状況。吉浜は、明治三陸、チリ津波の経験により、高台に集団移転、今回の津波の被害ゼロを実現した唯一の入江(大西講演より)をいうことでした。
私見ですが人的災害を繰り返さないための方針が見えません。企業と自営業と業務のおけるBCPによる方向性と地区コミュニティ単位のBCP作戦がよさそうです。(2012年7月12日記)



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