030 「理論と現実のバランス」再考
2013年 8月
白鴎大学 准教授
山田徳彦

 筆者が住む県には、高速道路、6車線の国道から、十分に舗装されていないもの、冬場はこわくて自分では運転できないだろうと思われる山道まで、様々な道路がある。日常的には、整備された道路と自動車を用いて便利な生活を送っているものの、しばしば「なぜこんなところに」と相当テマ・ヒマとお金がかかったことがうかがわれるお寺や神社、地域の特徴を反映した道の駅に遭遇する。一般には知られていなくても、由緒正しさがひしひしと伝わる名刹や「なるほど」と思ってしまうしくみを目にするたびに、地域の風土や文化といったものの威力を感じ、自らの底の浅さに恥じ入るばかりである。同時に、それらを支えてきた道の意義をあらためて考えさせられる。
 こうした経験を繰り返す中で、2つの素朴な疑問が生じて増幅していった。@どこかに道路整備のしくみあるいは制度の見落しはないだろうか、A様々なしくみやそれがもたらす効果を万人に理解してもらうことはできるだろうか。@については、本コーナーにすでに掲載されている先生方の文にヒントがありそうだ。それゆえここでは、「Aをもっと重視すべきかもしれない」ということを強調しておきたい。もちろん、多くの場合、論理だけでは説明しえない「感情」や地域社会の「特性」に過度にとらわれることなく、しくみあるいは制度を精緻化させていくために労力を注ぐのは不可欠に思われる。研究者・専門家の叡智は尊重されるべきだろう。しかしその一方で、想像する以上に「あらゆる議論が細分化し専門的になってしまったのではないか」と思わざるを得ないことも何度かあった。「十分な議論を重ねていけば最終的に専門とする人の考えとおおよそ一致するのではないか」と期待されるケースは多いものの、そのために費やすエネルギーや時間が得られる成果に見合うかどうかわからない。いたずらに同じような議論を繰り返して、まったく先に進まないといったケースすらありそうだ。それであれば、議論をスムーズに進められるようなものを用意しておくことにエネルギーを注ぐ必要もあるのではないだろうか。院生時代に指導教授が強調された「理論と現実のバランス」という言葉が頭をよぎる。
 必ずしも道路に限ることではないけれども、関係者の間で十分な情報が共有されておらず、情に訴えることもできないなら、「ごめんなさい」といわざるを得ないようだ。けれども、先人たちが少しずつ精緻化してきた、制度やしくみの一部のみに焦点をあててなされた批判は、全体と整合するのだろうか。めぐりめぐって自らの首を絞めることにならないだろうか。生産年齢層の減少やインフラの老朽化に関する記事を目にする機会が増え、人口の減少と構成の変化を予測する県の計画やある市の「公共施設マネジメント白書」を見ると、地方レベルでもサスティナビリティを担保することが現実の政策課題となりつつあると実感される。短期的な損得勘定だけでなく、長い目に立つ判断が必要だ・・・頭ではわかっていても、実行に移すのは困難なのかもしれない。何が足りないのだろう? 前記の市が、「公共施設マネジメント」を周知させるために行っている工夫は興味ぶかい。
 様々な道が、それぞれの機能を果たしながら生活を支え文化を育んできたなら、将来もそうあり続けるように知恵を絞る必要がある、それは決して身近な道だけに限らない・・・自動車を運転しながら、そんなあたりまえのこととそれを効果的に訴える方法を考えた。そして考え続けそうだ。どなたか、ヒントを教えていただけないでしょうか。



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